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デンゼル様々です 【ザ・ウォーカー】 [映画日記<2010年>]

「ザ・ウォーカー」を見たよ!

戦争により文明が崩壊してから30年。
一人の男イーライ(デンゼル・ワシントン)は、1冊の“本”を西へ運ぶため、30年歩き続けていた。
人々は食料と水を求め、生き残った人々は食人を良しとする無法者ちたちを恐れて隠れ暮らすか、独裁者の町で細々と生きていた。
水を求め立ち寄った町で、イーライは町の独裁者カーネギー(ゲイリー・オールドマン)と出会う。
イーライの立ち回りを見て、あっという間に手下を殺されてしまったカーネギーは、このイーライを手元に置こうと必死に彼を説得にかかる。
カーネギーもまた、ある“本”を求めて必死になっていたのだった。
ふとした事から、カーネギーはイーライが自分が探し求めていた“本”を持っている事を知る。
執拗にイーライを追うカーネギー。
果たして、イーライの持つ、カーネギーが必死に探し出そうとしている“本”とは、一体何なのか。
そして、イーライは、“本”を西へ運ぶ事ができるのか・・・。

この作品は、「シックス・センス」に通ずる、ラストの“オチ”がある作品。
その“オチ”を知った後で、果たして今まで見ていた本編で、その伏線はあったのだろうか、と首をひねる、という訳。
それはさておき。

終末映画に属するこの作品。
邦題は「ザ・ウォーカー」になっているけど、原題は「The Book Of Eli」。そのままイーライの本。
イーライが一体何の本を命をかけて運ぼうとしているのか、というのが本題。

文明の崩壊したアメリカの映像は、砂漠に近い感じかな。
映像加工で、色調をとても抑えてあって、セピア色や灰色に見える。
埃っぽくて、荒々しい感じ。
無法者たちが闊歩して、独裁者がいる。
しかも食料の乏しい世界で、食人を良しとするものがいる。
食人はともかく、ちょっと「北斗の拳」のような世界観といったら、日本人には分かりやすいかな。

そんな世界で、イーライがめちゃんこに強い。
本を狙うカーネギーとの対決になるのだけど、銃を相手にしても、ナイフ1本でイーライは殺す殺す。
主人公然として、弾は当らないね。
しかも一瞬で敵を倒す殺陣は、座頭市にインスパイアされているとかされていないとか。

イーライを演じたデンゼル・ワシントンは、アクションも似合う、クールな主人公として、存在感はバッチリ。
言葉少なく、しかしどこかに優しさを秘めている主人公として、ストーリーを引っ張っていくにはもってこい。

カーネギーを演じたゲイリー・オールドマンは、悪役は得意なので上手いけど、変人を演じたほうがゲイリー・オールドマンらしい悪人になったかもしれないけど、カーネギーは独裁者というにはなかなかセコイ、小男だった気がする。

一方のヒロイン、ソラーラを演じたミラ・クニスは美人さんだけど、アメリカ映画は時に女性ヒロインがとても気が強かったり、自分勝手だったりして、主人公を翻弄させる傾向にある。
楚々としておしとやかなヒロインは、まず存在しないかも。
ソラーラも例にもれず、勝手にイーライについてきたり、世間を知らないのに大立ち回りを演じたり、自由だったね。
でも、それでいて、主人公に嫌われたりしないのが、アメリカ映画の不思議なところ。

荒涼とした大地にさすらいの主人公。
なかなかオイシイ設定ではあるけど、ツッコミたいところも多々発見。
戦争で文明が崩壊、という設定はいいとして、30年歩き続けていたら、アメリカ大陸なんてとっくに横断していそうなんだけど、そこはツッコんじゃいけないところなのかな?
それに、戦後の子供たちは読み書きができないって設定だったけど、たった30年、正直、そこまで文明が崩壊するとは思えなかったわ。
だって、イーライもカーネギーも戦前の世界を知っている。
まだそのくらいしか時が経っていないとなると、ちょっとリアリティーを持たせるのかキツイかな、と。
食糧難にしても水の問題にしても、戦争でよっぽどこっぴどく汚染されない限りは、大地は復活しそうなもんだけど、そこまでの描写がなかったからツッコミところになってしまったんだと思うな。

ところで、このイーライの“本”。
私は早々とその正体に気づいちゃったんだけど、他の方はどうなんだろう。
この“本”が“聖書”だと気づいた時から、どうしてそこまでカーネギーが聖書を求めるのか、疑問だった。
カーネギーは、聖書こそ、人々を簡単に操ることができる究極のツールとして、探し求めていた訳だけど、聖書に果たしてそこまで力があるのか、私には分からない。
もちろん宗教の影響力は大きいし、だから戦争の時にに真っ先に聖書が全部燃やされてしまったって設定になるのは分かるのだけど、でも、聖書は所詮キリスト教のツール。
世の中、キリスト教信者は多いけど、全てじゃない。
そこはアメリカ映画として、キリスト教信者の多いアメリカ人的なエゴがあったんだろうか。

宗教の事をああだこうだ言い出すと、大変なので、さらっと済ませるけど、聖書とキリスト教をくっつけて考えるのではなく、聖書をあくまで人々の心の支えになる聖なるもの、として、象徴として扱うのであれば、それはそれでその方がいい考えのように思えてきたわ。

イーライがたどり着いた先は、アメリカの西の果て、アルカトラズ島。
ゴールデンゲートブリッジはちょっと感慨深い感じがしたね。
で、アルカトラズ島には、戦前の文明を示すものが全て集められ、再び文明の火を灯そうと、学者たちが必死になっているところだった。
それと同時に、カーネギーが力で奪ったイーライの聖書が開かれ、またイーライの正体も判明する。
このカメラの切り替えは良かった。

カーネギーがそおっとガキを開けて開いた聖書には、一切文字が書かれていなかった。
いや、本の表面に浮かんでいるのは、小さな凹凸。
それは手で触らないと判別できないような、細かい点。
そう、イーライの持っていた聖書は、点字の聖書だった、というのが、“オチ”。
イーライは、最初から盲人として、スクリーンに登場していたのね。
でもそれは、観客にはそうだと分からないうようにストーリーは進んでいく。

そこで、振り返って、イーライは本当に盲人のように振舞っていたか、が気になる。
当然の常識として、盲人である設定なら、見えるような行動を取ってはいけない。
小説でも、男女が分からない描写であるなら、「ボク」とかの一人称は使ってはいけないし、
それはもちろん映画やドラマの世界でも、回想シーンなどではウソの映像を使ってはいけないし、
ま、意図して使っている場合は別としてね、
日本の2時間ドラマは、それが守られている訳ではない、というところが、地位を貶めている気もしなくもないけど、
とにかくイーライは、見えているような行動はできなかったはずなの。
そこで、一番気になったのが、冒頭、空き家でイーライが奥の扉を開いたら、首吊り死体に出くわしたシーン。
あれは何に驚いたんだろう。
まさか死体には驚かないと思う。
匂いとかで気づかない限り、イーライには目の前に死体がぶら下がっているのは分からないはずだから。
ま、匂いを気にしたり、音に頼ったりと、確かにイーライの行動には、盲人の伏線があったように思う。
殺陣にしても、ま、市が盲人だから、何をかいわんや、か。

それにしても、点字の聖書は、えー!とかほほう!とかならず、ふふん程度だったな。
しかもイーライはその全文を暗記していて、なら聖書はいらないんじゃ、と思ったり、。
ま、象徴として、その存在が必要なのは納得するけど。

デンゼル・ワシントンでなければ、この作品の味は出なかったと思うから、キャストが良かったって事かな。
カーネギーは、最後、誰かの手によって、ちゃんと殺して欲しかった。
なんとなくケジメとして。

どこか現実離れした映像と、強くヒロイックな主人公を楽しむには、適当な作品かな。
それ以上でもそれ以下でもないけどね。


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