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壮大な軽いお話です 【タイタンの戦い】 [映画日記<2010年>]

「タイタンの戦い」を見たよ!

天地の神ゼウス(リーアム・ニーソン)、海の神ポセイドン、冥界の神ハデス(レイフ・ファインズ)、神々が存在する神話の時代。
人は神々に反旗を翻した。
怒りを隠せないゼウスは、兄であるハデスの言葉を受け、地上へハデスと彼の操る怪物クラーケンを送り出す。
神の怒りに立ち向かうのは、ゼウスが人との間に儲けた子、半神半人のペルセウス(サム・ワーシントン)。
彼は人として戦いに身を投じる。
果たして、神対人の戦いの行方は?

上映が終わる前に、なんとか見れたよ。
本当は3Dで見たかったのだけど、時間が合わず残念ながら2Dで。
でも、どうやら2Dで撮ったものを3Dで見えるようにした作品らしいので、どちらでも良かったかな。

作品の細かいところは後であげるとして。
とにかく、壮大で重厚なこの作品を、まぁよくぞここまで軽い作品に仕上げたなぁ、と。

この作品、リメイクなんだってね。
元の作品を見ていないのでなんともいえないけど、もう少し重重しい内容にできなかったもんか。

まず、ペルセウスが、自分がゼウスと人との間に生まれた半神半人だと認めるシーンや、その力を受け入れるシーンなど、キメどころがいくつかあると思うのだけど、それが非常に曖昧。
よく分かんないけど、彼は半神である事を認めちゃっているし、その力もなんとなく使っちゃってる。
そこが、ペルセウスに感情移入できない、一番の原因じゃないかと思う。
彼、あまり悩まないんだもん。
ま、2時間にまとめようとすると、彼がぐじぐじ悩んでいる時間はあまりないのだけど、それにしても、とても安易な感じがする。

まずオープニングからして、神々と人とが存在する、神話の時代だよ、という事を説明するのは、ナレーションのみ。
オープニングのナレーションをちゃんと聞いていないと、この作品の設定が分からないまま、いきなり物語が始まってしまう。
しかも、ペルセウスの幼少時代のシーンもあるけど、いきなり16年後とかなって、ペルセウスはムキムキの漁師になってスクリーンにいるから。

人と神との関係も分からずらい。
神ゼウスが人を創ったのは分かったけど、なぜにして人がそこまで神に反抗するのかが分からない。
ゼウスはそんなに大変な事をやらかしたんだろうか?
そこの描写がないっちゃない。
しかもゼウスを演じているのがリーアム・ニーソンでしょう。
彼には善の雰囲気があるから、人にそんなにひどい事をするようには見えないしなぁ。

ゼウスとハデスの関係も、いまいち。
弟であるゼウスが、兄のハデスを騙して、ハデスを冥界に追いやったから、ハデスがゼウスを憎んでいるのは分かるけど、それなら何故、ゼウスはハデスの言うとおりに、クラーケンを放ったんだろう。
ゼウスはそれほど人を憎んでいるようには見えないから。
ただ、反抗されて、ちょっと怒っているって感じだからね。
お仕置き程度なら分かるけど、人を滅ぼすほどの怒りはないっしょ。
しかも、神は人の愛によって永遠に生きるのであれば、恐れ多い存在として君臨、敬愛を集めようとするなら分かるけど、わざわざ恐怖と絶望を与えて、自らを弱らせるなんて、頭悪いじゃない。

このあたり、設定としてのストーリーを、もう少し慎重に考えておくべきだったんじゃないかと思う。

イオの存在も不明瞭。
彼女は神が使わした守護者じゃないの?
その方が分かりやすかったと思うんだけど。
男どもが汗と血にまみれて戦っているのに、一人、涼しい顔してパーティーに交じっているのは、ちょっとオカシイ。
途中、スコーピオンに襲われているシーンでは、思いっきり服の裾がめくれて、スカートめくりみたいになってて、ほとんど足手まといだったから。

最終目的は、ハデスのクラーケンを倒して、王妃を守るってところにあったのだけど、その為に魔女にお伺いを立てたり、メデューサの首を取りに行ったり、そこはRPGらしくなってた。
でも、目的の為の途中の方を一生懸命描きすぎてて、本命のクラーケンやハデスとの戦いが滲んでしまっていたね。
特に、ハデスは神のくせに、簡単にヤラれすぎ。

今まで一度も戦った事なんかない漁師のペルセウスが、あんなに最強の戦士であるはずもないのに、めちゃくちゃ強いのは、ま、目をつぶるとしても、仲間はどんどん死んでしまうのに、大ボスのハデスがあの体たらくじゃな。

クラーケンがメデューサの力で石になるのは読めたので、予想通りという以上にならなかったから、余計にハデスは簡単にヤラれすぎ。

メデューサの描写は、こっちの作品の方が全然良かったけど、「パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々」でユマ・サーマンが演じたメデューサのバカバカしさが、ちょっと懐かしかった。

それならペルセウスと、王妃がくっつけば良かったのにね。
わざわざイオかぁ・・・

ペルセウスは、人として戦う事に信念を置いていた割に、ゼウスとの関係は、ほのぼのしてたね。
もっと父に逆らう反抗児で良かったのに。
捨てられて、死にかけて、育ての親を殺されたのに、案外実の親を認めちゃったりしてね。
なんだかなぁ。

ペガサスはおー!って思ったけど、飛んでいる描写は良かったのに、地上にいるとただ馬に羽をつっくけただけに見えてしまって、惜しかった。
スコーピオンは良かったけど、乗り物になっちゃったからなぁ。
魔女はギレルモ・デル・トロのマネっこみたいだったし、砂漠の魔法使いは、タスケン・レイダーみたいだった。ちょっと違うか。

神が鎧を着ているのは、監督が「聖闘士星矢」へのリスペクトだと語ったらしい。
その姿は神らしかったけど、キラキラしてたしね、でもその分、マンガちっくだったというか、人と神の違いが、あまりなかったように見えて、神はもっと神らしくあったら良かったのに、って思った。
「パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々」みたいにデカイとか、なんかすんごいワザを持ってるとか、人の前に現れる以外は実体がない、とかなんとか。

ペルセウスは、英雄になったけど、結局は父ゼウスから武器ももらって、褒めてももらって、嫁までもらって、ルンルンな最後だったね。
なんか贔屓しすぎだよね。
ゼウスも息子がカワイイのは分かるが、元々は反抗した王を苦しめる為に、勝手に妻を犯して作った子だしなぁ。

旅に勝手についてきた、怪物退治かなんかの自称プロってのがいたでしょう。
いいキャラだったからもっと活躍してくれれば良かったなぁ。
登場も唐突だったけど、退場も唐突だった。
というか、メデューサに怖気ずいて帰っちゃったんだったか。
でも最後は、スコーピオンに乗ってウキウキだったし。

なんか、次々犠牲になって死んでいった仲間達が可哀想だ・・・。

いろいろ何もかもが曖昧で中途半端だったんだよね。
せっかく身体張って頑張ってんのにさ。
もったいないなぁ。
上映時間を2時間に納めたのは良しとしても、ご都合主義と言われてもこれは反論できないぞ。
もっともっと面白くなりそうな作品なのになぁ。
壮大な物語って、アイディアだと思うのよ。
どうやって神々しく見せるか、とか、何も知らない男が、神に代わってお仕置きよっ!ってなるのか、とかね。

つい、「パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々」と比べたくなるけど、「パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々」は本当にブーちゃん映画だったから、それに比べれば、まだ大人の作品だった。
ロケ地とかも良かったし、超古代の感じとかも良かったんだけどなぁ。
どこかで見た事あるような、という感じも否めなかったけど、もうやりつくしている世界観でもあるから、あとはそれをどう見せるか、やり通すか、でしょう。
あと一歩。
何か工夫があれば、もう少し良い作品になったと思うのだけど、どうだろう。
買いかぶりすぎかな・・・。

ま、時間つぶし程度には、見ても良いかもね。
逆に言えば、その程度。
あー、もったいない。
いろいろ。


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新生ホームズ 【シャーロック・ホームズ】 [映画日記<2010年>]

「シャーロック・ホームズ」を見たよ!

19世紀末。ロンドン。
若い女性が、儀式によって殺される連続殺人事件が起こる。
その事件の犯人、ブラックウッド卿(マーク・ストロング)を逮捕したのは、スコットランド・ヤードを率いるレストレード警部(エディ・マーサン)、ではなく、名探偵シャーロック・ホームズ(ロバード・ダウニー・Jr.)と、相棒のDr.ワトソン(ジュード・ロウ)であった。
ブラック・ウッド卿の処刑から数日、なんとそのブラックウッド卿が、墓から蘇った。
闇の力で、イギリスを、果てはかつての植民地アメリカまでも、手中に収めようとするブラックウッド卿。
ホームズは、果たしてブラックウッド卿の野望を打ち砕く事ができるのか・・・。

この映画を見て、あらためて自分が、ジェレミー・ブレッド氏のホームズが好きだったんだなぁ、って実感。
最後まで、ロバート・ダウニー・Jr.がホームズだって感覚が得られなかった。
その分、映画の楽しみが半減したような気がして、なんかちょっともったいなかったかなぁ。

多分、シャーロック・ホームズシリーズはちゃんと読んでいるはずなんだけどなぁ。
なにぶん、小学生の時かなんかに、子供向けのホームズ全集みたいなやつを、図書室で読んでた記憶があるから、そこにあった分は読んでるはず。
あ、でも、全部読んだかは分からないか。

ホームズ好きなんです。
で、キャストが、ホームズがロバート・ダウニー・Jr.で、ワトソンがジュード・ロウ。
全くイメージ違うやんけ~、と思いつつの観賞です。

結果、前述した通り。

この映画のホームズは、なんだろう、コカイン中毒とか、ちょっと原作のような病んでいる感じではなかった。
確かに、部屋は散らかり放題だし、ひっきーなんだけど、
ロバート・ダウニー・Jrが、お顔にお肉のついた、がっちり体形なもんで、意外と肉体派?って思えたね。
でも、原作のホームズも、棒術には優れていたんだよね。確か。

ワトソンに対して、憎まれ口をたたくくせに、かまってもらえないと寂しくてスネてしまうような、ちょっとツンデレ気味のホームズでしたね。

敵役であるブラックウッド卿が、魔術でも使って人を殺したり、儀式に用いたり、と、おどろおどろしいように見せて、実は科学技術の結晶が、犯罪に利用されていた、ってネタは、面白いと思った。
あれって、リモコンな訳じゃない。

でも、その卿より、ミズ・アドラーを裏で操っていたモリアーティ教授の影の方が、より不気味で、とても気になった。
結局、最後まで、顔は映らなかったけどね。

それにしても、ホームズシリーズのキャストが大集合で、非常に豪華な布陣だったのよ。
ホームズに、ワトソン。
ハドソン夫人に、アイリーン・アドラー。
レストレード警部に、モリアーティ教授。

なのに、
うーん、私が腑に落ちない点はどこなんだろう。
評価も非常に高くて、評判がいいじゃない。
でも、その評判ほど、しっくりはこなかったんだわ。
どこをも見ていいか、分からない感じがしたの。
やっぱり、ホームズ像が、自分の中でできあがっちゃっていたからなのかなぁ。

そんな葛藤の中で、映画で描かれる、当時のロンドンの様子は、素晴しかった。
町並みがとてもいい。
キレイと汚いとが渾然としている感じとか、馬車が狭い通りをスピード上げて走り抜ける感じとか。
当時の服装も良いよね。
屋内の様子も良い。
それに、イギリス英語が耳について、とても印象に残ったわ。
ロバート・ダウニー・Jr.は、アメリカ人のせいか、その印象はないのだけど、
ジュード・ロウはイギリス人だし、他の出演者も英国人が多かったんだと思うのだけど、イギリス英語が作品の雰囲気に合ってる。
当たり前なのだけどね。

面白かったのかなぁ。
ちょっと自分で分からないわ。
小首をかしげたまま、終わってしまった気がする。
ストーリーが決してつまらなかった訳ではなくって、自分の中のホームズ像が、思っていた以上に、自己主張してしまった為でしょう。
おそらく。
でも、そういう思いをなさる方が、きっと他にもいらっしゃると思う。
ホームズに先入観が全くない人の、感想が是非聞いてみたい。
そんな作品です。

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ぶーちゃん映画 【パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々】 [映画日記<2010年>]

「パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々」を見たよ!

ボクの名前はパーシー・ジャクソン(ローガン・ラーマン)。難読症に悩む高校生。
親友は足が不自由なグローバー(ブランドン・T・ジャクソン)。
父親は知らず、母親と飲んだくれの義父と暮らしている。
学校の授業についていくのは難しいが、水の中になら何分でもいられ、なぜかすごく落ち着く。
ある日、メトロポリタン・ミュージアムでの課外事業の際、思ってもいない事態が起こったんだ。
ブルナー先生のギリシシャ神話の解説中、引率のドッズ先生に呼び出されたボクは、いきなり羽根の生えた化け物に襲われた。
「ゼウスの稲妻を返せ!」って言われたって、ボクにはさっぱり分からない。
しかもその化け物はドッズ先生だったんだ。
助けてくれたブルナー先生とグローバーは、なぜか訳知り顔。
ボクを“キャンプ”につれて行かなきゃって言うんだ。
道すがら、母から聞いたボクの秘密。
ボクが海を司る神“ポセイドン”の息子だって!?

あらずじは、いつもとちょっと違う一人称でお送りしました。

見終わって、まず、笑ってもいい?
はははーっ!(笑)
久々に見たわ。お金のやたらとかかっている、ぶーちゃん映画。

想像していたのと、ちょっと違った展開だったわ。
主人公パーシーの、成長物語かと思っていたの。
いきなり普通の高校生が、君は神の子で、力を授かっている。
だから敵と戦いなさい、ってやつね。
で、自分の運命を少しずつ受けられて、だんだんと成長していく主人公を想像していたの。
でも、フタを開けて見たら、全然違ってたね。

これは半神半人高校生の、お気軽冒険物語。
しかもかなりRPG入った。

パーシーが、自分の秘密を全く知らないところから始まったから、それを受け入れる過程が、多少乱暴になるのは仕方がないと思ってた。
だいたい、こういう類の映画は、その導入部分が難しいから。
そこにばっか時間をかけていたら、本筋である冒険の方に割く時間が足りなくなっちゃうからね。

でも、それにしても、パーシーの周りの展開が速すぎ。
パーシーも、それに振り回されているうちに、あっという間に受け入れちゃった。
マジ?

自覚も早ければ、力を使うのも早い。
あ、ボクって、半神半人だったんだ、って思ったが早く、剣も使えるよー、こんなん力も使えるよー、おりゃー、じゃ、納得できんだろ。
普通。

追われてたとはいえ、いつパーシーが受け入れたのか、キッカケがはっきりしない。
キッカケだけでもあれば、まだましだったと思うんだけどな。

母親が追ってきたミノタウロスに殺されちゃった、ってなっても、パーシーはあっけらかんとしているように見えたね。
たった一人の肉親だぞ。
もっと動揺するだろうし、悲しめよ。と。
パーシーが、すっごく淡白な子に見えてしまったね。
ま、結局は母親は死んでいなかったにせよ。
そこは言葉だけじゃ足りんよな。

展開として、主人公が自分の力を自覚して、訓練する、というパターンは、ありがちだけど、
14日以内に、“ゼウスの稲妻”を見つけなければならない、って縛りがある展開には、
このキャンプはあまり効果がなかったように思えて。
長い道のりを進むうちに、訓練をつむ、とかだったら分かるんだけど、締め切りの日にちが迫っている中、のんびり訓練もあったもんじゃないだろう、と。
例えば、3日でお前を立派な使い手にしてやろう、みたいなお師匠さんが現れるならともかく、ね。

挙句の果てが、母親を助けに行く、って、単独キャンプを抜け出したパーシーの先走りが、この映画の本筋な訳だから。
従者と決まっているグローバー、彼は半人半獣のサテュロスだったのだけど、彼となぜかパーシーに興味津々のアナベス(アレクサンドラ・ダダリオ)、彼女はアテナ神の娘ね、彼女がパーティーを組む形に納まるけど、ドラクエが始まるのかと思ったわ。

全てにおいて、シリアスさに欠けるというか、事の重大さが、全く伝わってこないのが、軽く感じてしまう原因だと思うわ。
神も、半神半人も、母親の死も、キャンプも、訓練も、子供だましに見えてしまうのは、とてももったいない。

最後まで、この軽さと子供だまし感は、なくならなかったね。
それがぶーちゃん映画の所以。

もう一つ言わせてもらえば、ヴィジュアル・エフェクトの技術は相変わらず高くても、今回の場合は、どうも人の周りで、CGばかりが勝手に動いているって印象が残った。
主人公たちとCGが一体になっていない。
しかも、クリイマックスに近い戦いは、パーシーと今回の敵役だったルーク(ジェイク・アベル)との戦いなのだけど、
二人ともまだ若いから、戦いに重みがそれじゃなくても出ないのに、映像技術と生身の役者が溶け込んでいないから、余計に違和感。
パーシーをもっとカッコ良く見えるやりようが、何かあったと思うんだけどなぁ。

そうそう、あのキャンプ内での殺陣は、もっともっと練習して欲しかった。
特に、アナベスは。

ポセイドンに父性を持たせたのは悪くなかったけど、最後の彼のセリフは、大人のいい訳に聞こえてしまって、もう少しひねりが欲しかった。

そんなぶーちゃん映画の中で、楽しみがあったのは、
主人公のパーシーを演じたローガン君は、私が好きな映画、アシュトン・カッチャー主演の「バラフライ・エフェクト」で、一番小さい頃のアシュトンを演じた子だった。
顔にすごく面影が残っていて、なんかイケになったなぁ、って思ったわ。
子役の時もかわいかったんだよね。
ちょっとザック・エフロンに似ているけど、ローガン君の方が素人っぽくてカワイイかも。

それと、敵役だったジェイク君は、私が現在ハマりにハマっている米ドラマ「SUPERNATURAL」のシーズン4で、主人公の兄弟の、腹違いの弟(だと思うけど限定はされなかったんだよね)アダムを演じた子。
さすがに去年の事だし、兄弟の腹違いの弟?って、ファンの間では相当話題になったエピソードだったから、よく覚えているよ。
アダム、再登場するじゃなかったっけ?

ブルナー先生は実はケンタウリで、名前がケイロン。
竹河聖著作の「風の大陸」で登場するケンタウリもケイロン。

そんな本筋とは関係ないところで、楽しんでたわ。
グローバーも角が生えて、あぁ、これから彼は、タムナスさんになっていくんだなぁ、とかね。

グローバー、「メェ~」って鳴くのはどうかと・・・。

それにしても、ユマ・サーマンは、よくあの役を受けたよな。
メデューサ役というのは、名前を聞けば魅力的だけど、実際には、コートをばーって開くと何にも着てない痴漢みたいなコート姿で、ヘビの髪の毛はステキだったけど、結局パーシーに首を落とされて、死んでもまだメデューサの力は役立つからって、生首のまま、何度も武器として使われて、その度に、死んでいるのに目を見開いて、ほとんどギャグだった。
ラストは冷蔵庫の中で、生首のまま目を見開いて・・・
ご愁傷様。

パールって言えば、“白”だけど、なんで今回は、あんなおもちゃみたいなブルーの光る玉にしたんだろう。

最後に、難読症(Dyslexia)について一言。
日本ではあまり馴染みのない障害だけど、英語圏では苦労なさっている方多いみたいよね。
ハリウッド俳優にもすごく多い。
トム・クルーズは有名だな。
他にオーランドとかキーラとか。
知能に問題はないのに、文字が読めなかったり書けなかったり。
前に、英語圏の人と、漢字圏の人では、言葉を理解するのに脳の違う部分を使っているって聞いた記憶があって、だから日本人には馴染みがないのだと思うわ。
もちろん、漢字圏でも苦労なさっている方はいらっしゃるけど。
パーシーは、難読症というよりは、文字をギリシャ文字に変換できる能力があったって事なのね。
なるほどね。

良い作品にばかり当る訳じゃないのも、ま、映画の楽しみかな。
多分1,800円払って見る事に腹を立てる人はいるかもしれないけど。
これ、続編あるんだっけ?
次は、監督、脚本、演出と、もう少し工夫をしてくれる事を願うな。
ローガン君イケでカワイイから、もっとカッコよく見せてあげて欲しい。
子供のRPGを作るより、きちんと冒険物語を、主人公の成長物語を作って欲しいな。

それでもぶーちゃん映画を見たいって人は、勇気のある方です。
是非、楽しんで下さいな。

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実話は強し 【しあわせの隠れ場所】 [映画日記<2010年>]

「しあわせの隠れ場所」を見たよ!

現在。
NFLの花形と言えばクォーター・バックだが、2番目に活躍している選手は意外と知られていない。
との文字と共にNFL中継のカメラが映している、一人のアメフト選手。
全米を代表する新人選手、マイケル・オアー。
“ビック・マイク”こと、マイケル・オアー(クイントン・アーロン)は、父親を知らず、コカイン中毒の母親から引き離されて、一人で生きてきた。
世話を焼いてくれた人がマイケルを連れて行ったのは、キリスト教系の高校。
白人しかおらず、しかも成績の悪いマイケルを教師たちは拒否しようとするが、その身体能力をかわれて、渋々入学を許可される。
しかし、学業にはついていけず、迷惑になると世話を焼いてくれた人の家からも逃げ出したマイケルには、寝る場所もない。
感謝祭の前日。
凍えるような寒さの中、ティーシャツ、半ズボン姿で、寝る場所を求めて歩くマイケルに声をかけた人がいた。
彼女の名はリー・アン(サンドラ・ブロック)。
セレブ一家であるテューイ家の母親でもあるリー・アンは、親切心からマイケルを自宅に連れて帰った。
巨漢で黒人であるマイケルに、最初は自分の決断に迷うリー・アンだったが、彼女の決断と行動力は、マイケルに新たな人生を与えたのだった。

実話です。
「インビクタス」に続き、連続して実話を元にした作品を見たのは偶然だけど、実話は強いね。

アメリカ国内ならともかく、日本にいてよっぽど好きでないと、アメリカのアメフト選手なんて知らないけど、このマイケル・オアーの半生を描いた原作が発売されたのは昨年。
マイケル・オアーが、ドラフト1巡でプロの選手になったのも昨年。
なんとも新鮮なお話なのね。

ウソのようなホントの話。
とでも言えばいいのかな。
彼のサクセスストーリーと言ってしまえばそれまでなのだけど、彼にそのサクセスへの道を作った、サンドラ・ブロックが演じたリー・アン・テューイという人物が、すごすぎて、まるでフィクションのよう。

まずリー・アンの旦那が、元バスケのプロ選手のようだけど、現在はファースト・フード店を何件も経営するような実業家。
リー・アン自身も、インテリア・コーディネーターとして成功していて、
家は豪邸、つまりはセレブ一家。
そんな彼女が、道で見かけたマイケルを、ちょっとした親切心から、一晩家に泊めたのは、それほど特別な事じゃないかもしれない。
しかもマイケルの通う学校に、リー・アンの娘も息子も通っており、少ながらずマイケルの事を知っていたから。
アメリカのセレブって、チャリティー精神に格を求める傾向があるから、ハリウッド俳優がやたら寄付をするのもそこなんだけど、
ただ、マイケルがとても幸運だったのは、たまたま彼の世話を焼いた人物が、彼をこのキリスト系の学校に入れた事で、そして彼自身が、決してスレた人物でなかった事かな。

最初にすごくそれが分かったのが、泊まった次の朝に、もし襲われでもしたら、家のものが盗まれていたら、と、一応心配するリー・アンが、彼が寝た部屋へ行くと、使ったシーツやブランケットが、きちんとたたんで置いてあった事。
マイケルはスラム出身の黒人だし、母親もジャンキーで、町は暴力の匂いがして、とにかく身体の大きいマイケルは、もしかしたら危険な人物かもしれないって思うじゃない。
でも、実際は、そうではなかった。

それを、「はなのすきなうし」の絵本に例えているところが、非常に分かりやすくて良かったと思う。

この作品では、分かりやすい例え、が、頻繁に出てきて、それがとても良かった。
最初のうちはマイケル自身がものを把握する能力がちょっと悪くて、でもそんなマイケルにも納得できるように、リー・アンや、周りの人物たちが、非常に協力的。
アメフトの基礎を知らないマイケルに、選手を家族に見立てたり、小論文を書くのに、古い物語を今度はアメフトに例えたり。
マイケルに関わる人物たちが、皆、とても利口。
どうすればマイケルが理解できるかって考えて、言葉を選んでいる。
ま、映画の脚本だから、全てが本当だとは思わないけど、それでも、一人の人物を育てるには、こういう事が必要なんだな、って気づかせてくれる。
やはり彼は、とても幸運だったんだと思う。

リー・アンのすごさは、その決断力と行動力だと思う。
こうだ、と決めた後の行動力と言ったら、周りはきっと毎回ビビリながらも、彼女のバイタイティーに負けて、結局巻き込まれちゃうんじゃないかと思うわ。
マイケルを泊めた事は単なる勢いだったかもしれないのに、一晩でマイケルの内面を感じて、そのまま家族として迎えてしまう決心をしてしまうのだから、何をかいわんや。
マイケルの事をあまり理解していないアメフトコーチにイライラしたら、自らグランドにずかずかと入り込み、マイケルが理解できるような解説をしてあげる。
試合途中でもコーチに携帯で指示を出したり、ひょっとするとイヤミな気に強いだけの女性に見えてしまう恐れがあるのに、そう見えないところが、彼女の徳なのかな。

マイケルの母親を見つけたり、出生届すら出ていないマイケルの法的な後見人となる為に、奔走する姿は、感心しかり。

で、それだれかと言えば、そうでなくて、初めて自分のベッドを持てた、というマイケルに同情して、部屋で涙ぐんでみたり、母親から本を読んでもらった事のないマイケルに、自分の息子と一緒に絵本を読んであげたり、
いつもはソファーでテレビを見ながら食事をするテューイ家の面々と、きちとんテーブルで一人で食事をするマイケルの為に、テレビを消して、一家がマイケルを囲んで温かい家族の食卓を作ってあげたり、と、いちいち鼻の奥がツンとするようなエピソードが続くのよね。
クリスマスカードにも、マイケルに黙って、彼が一緒に写っている写真を使ったりね。

リー・アンの分け隔てない接し方は、素晴しいよ。
私にはあそこまでできないと思えるから、余計。

そんな彼女の教育のおかげか、このテューイ一家は、家族みんなして理解のあるとてもいい人ばかり。

旦那も懐の大きい人物だと思うよ。
行動力のありすぎるリー・アンを受け入れられるだけの度量があるのだから。
アリソン・デュボアのダンナ並み(笑)
お金に余裕がある、というのが最大の強みでもあるのだけど、それだけじゃない感じが伝わってきて、何度涙をぬぐった事か。
年頃の娘もちゃんとマイケルを受け入れているし、まだ小さい末の弟は、最初っから兄貴ができたって喜んでたみたい。

マイケルが幸運だったのは、この一家がアメフトファンであったのも大きいかも。
ちゃっかりしっかりした弟は、あのキャラはズルいなぁ。

マイケルは最初、周りの世話焼き係に従順で、あまり意思を見せない。
で、リー・アンが行動力ありすぎるから、ともすると、マイケルは周りに振り回されているだけに見えてしまう。
なかなかマイケル自身に、どうしたいかって聞く人物もおらず、リー・アンのいい人っぷりが目立ってしまう。
だから、終盤に、マイケルが一度リー・アンの元からいなくなってしまう出来事が、必要だったのかな。

あれがないと、マイケル自身の意思が、見えなかったからね。
マイケルもちゃんと、顔には出なくても、テューイ家の一員になれた事を喜んでいるし、アメフトの能力を生かせた事も喜んでいるし、これで良かったんだ、っていう証拠が欲しいというか、必要だったんだな。やはり。

サンドラ・ブロックって、気が強くてさばさばしてて行動力のある女性を演じると、とても似合うね。
素な感じがしてくる。
そのサンドラ・ブロックのインタビューを読んでいたら、本当のリー・アンは、まだまだ彼女が演じたリー・アンより、さらに精力的な方らしい。
これでも抑えて演技したらしいよ。
リー・アンそのままを演じたら、劇画ちっくになりすぎてしまうきらいがあったんだって。
そりゃ、すごい。

旦那を演じたのがティム・マッグロウ。
彼ってカントリー歌手だったのね。
柔らかい表情で、器の大きい父親を演じていて、ナイスキャンティングだな、って思ったの。
役者が本業じゃないのね。
驚いた。

マイケルを演じたクイントン・アーロンは、新人らしいけど、無表情だったマイケルが、少しずつ、表情が出てきて、元々優しい顔つきなのが、どんどんカワイイ感じになっていくのが好感が持てた。
最初の頃のマイケルは、常に泣きそうな顔してるから。

偶然と幸運が重なって、プロアメフト選手マイケル・オアーが誕生したのは間違いないけど、
リー・アンたちの努力と、本人の努力がなかったら、やはりこの幸運はなかったんじゃないかと思える。
それをきちんと伝えられる作品になっていると思うよ。
実話は強いよなぁ。
近年、すっかり涙もろくなってる私としては、最初っから最後までハンカチが手放さなかったけど、
決して、お涙頂戴に作っていないし、
リー・アンや弟の行動がコミカルちっくに作ってあって、笑いのポイントもあるし、
洋画はエンターテイメントを作らせると上手いなぁ、と。

爽やかな感動作に仕上がっていて、なかなかのお勧め作品よ。
アメリカの生活感が感じられて、それも楽しかったし。
邦題が、感動作だといつもつまらない感じになってしまうのは仕方がないとして、
見て損はないと思うので、是非。

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なんか気になる作品 【Dr.パルナサスの鏡】 [映画日記<2010年>]

「Dr.パルナサスの鏡」を見たよ!

イギリス、ロンドン。
移動式のステージで「幻想館」を見世物として旅を続ける一座。
Dr.パルナサス(クリストファープラマー)と娘のヴァレンティナ(リリー・コール)、座員のアントン(アンドリュー・ガーフィールド)、パーシー(ヴァーン・トロイヤー)。
Dr.パルナサスが幻想館で見世物とする鏡は、その中の入った者の欲望の世界を作りだせる、不思議な鏡だった。
ある日一座は橋から首を括られて吊るされていた男トニー(ヒース・レジャー)を助ける。
トニーが加わった一座は、トニーの口の上手さに助けられ、かつてないほど客を集める事に成功する。
だが、Dr.パルナサスには心配事があった。
1000年もの昔、悪魔のニック(トム・ウェイツ)と賭けをして勝ったパルナサスは、不死と引き替えに、娘が16歳の誕生日を迎えた時、悪魔に引き渡す約束をしていた。
ヴァレンティナの誕生日は3日後。
Dr,パルナサスの苦悩は日々増していた・・・。

ヒース・レジャーの急死で、途端に注目を浴びたこの作品。

映画を見て困惑したのは久しぶり。
監督テリー・ギリアムの頭の中は、とてつもなく理解しがたいのに、作品が面白くなかった訳ではない、というのがこれまた困った問題で。
見た人それぞれが、違った解釈をして良い作品の類、として、いいのだよね?

Dr.パルナサスの鏡の中の世界は、“良い”と“悪い”の選択がある。
まるで喪黒福造の「どーん」みたい。

しかも“悪い”を選ぶと、いきなり大爆発して、1発目は驚いたぁ。
容赦ないんだか、潔いのだか。

トニーを含め、登場人物がみな、一物抱えてて面白い。
ヴァレンティナは絵に描いたような家庭に憧れ、アントンの思いに気づかず、トニーに恋をする。

アントンは、得体の知れないトニーに、ずっと好きだったヴァレンティナを一瞬で奪われて、やけっぱち。

トニーは命の恩人である一座に恩返しで儲けさせるけど、彼自身は決して善人ではなく、過去の行いから殺されかけたのだし、いたって俗物、である。

そしてDr.パルナサスは・・・。

悪魔との取引は、メジャーな方よね。
10年後に魂を渡さなければならないとか、いろいろ。
Dr.パルナサスは娘を渡す約束をしてしまった。
で、それをなんとか回避しようと右往左往するのだけど、このDr.パルナサス、彼の最後の選択は、そうか、彼もまた俗物なのだな、と。

どこか聖人の雰囲気がずっとしていたの。Dr.パルナサスに。
鏡の世界は欲望の世界。
全員が“良い”方の選択をする訳ではなく、客は喜ばせるけど、悪い連中には天誅とばかりに、“悪い”選択になり、破滅したりする。
でも最後は、娘かわいさに、トニーを騙した。
トニーの死を願う悪魔の提案を飲み、トニーを騙して娘を守った。
すでに娘は、彼の元を去っていたけど。

あの悪魔は、きっと、Dr.パルナサスを陥れたいとか、破滅させたいとかじゃなくって、それこそ不死を手に入れたDr.パルナサスと、きわどい賭けを続けながら、ずっと遊んでいたいじゃないか、と思ったわ。

Dr.パルナサスが客に見せる欲望の幻想の世界は、カラフルでチアフルでポップで、なんだろ、夢の世界?おとぎの国?いかにも、なデザインとか、分かりやすいというのか。
言葉に困るなぁ。

“悪い”方もわかりやすくて、暗かったりおどろおどろしかったり、不気味だし、良くないというのが丸分かり。

現代、CGなんて現実の世界と境目が分からないくらい技術があるのに、Dr,パルナサスの幻想の世界は、なんとなくチープなCGの世界の匂いがして、ほくそ笑みたくなったわ。
全てがオモチャちっくなのね。

Dr.パルナサスにとって、トニーって結局何者だったんだろう。
彼のおかけで、というか、彼がいてこそ、ヴァレンティナは助かったのだけど、
何か、変化をもたらしたキッカケであったのだね。
Dr.にとっては、身は持ち崩したけど、ヴァレンティナは憧れだった普通の幸せな家庭を手に入れたのだし、
悪魔とはまた微妙な関係を続けられて、
彼は生き続ける。
か。

うーん、読んでいて気づいたかもしれないけど、この作品、どう書いていいかよく分からん。
感情移入するのが誰か、って問題もあるけど、
つかみどころがないというのか、やはり分からなかったというのか、
でもあの幻想の世界は好きだ。
だって、でっかいDr.の顔が舌を出して、最後は舌を出したまま、くるくる高速で回って飛んでいっちゃったを見たら、なんか負けたなぁ、って思ったもん。

見た人がどう思ってもいいと思う。
分からないからつまんない、っていう人もいると思うなぁ。
分かんないけど面白かったんだけど、やっぱり言葉に出来ないし。

ただ、なんとなく、みんな登場人物が自分の欲望に勝てないというか、欲望を見せる鏡の世界より、現実の世界で人物たちが欲望に振り回されているというか、それが人間らしいというばその通りだし。

最後に。
ヒース・レジャーが撮影途中で亡くなってしまったけど、それを友人だったジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルが引き継いで演じて、作品が出来上がっている、というは、驚嘆に値する。
もちろん作品がファンタジーの世界で出来上がっていて、鏡の中の世界を3人が演じているから、引継ぎやすかったのはあるけどね。
そのおかげけで、非常に豪華な作品になったよ。

ヒース・レジャーは、「ダーク・ナイト」のジョーカーが、非常に生理的に嫌悪感がするキャラクターで、その演技が良すぎただけに、見ていてイヤな感じだったの。
でもトニーを演じるヒースを見ていると、上手い役者さんだな、って思えた。

クセがある作品、というより、クセだらけで、つかみどころがない作品、のポジションかな。
理解はできずとも、映像のセンスは好きだし、なんか面白かった気がする。
なんか気になる作品ですよ。
この作品の解釈はこうだ、と断言できる人がいたら、ちょっと講釈して欲しいかも。
多分、誰が講釈してくれても、半分納得で、半分納得できないんじゃないかと、思うけどね。

あ、でも、あの鏡の中に、入ってみたい。
果たして私には、どんな世界が見えるのか。
怖いような、楽しいような。

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人を許す心 【インビクタス】 [映画日記<2010年>]

「インビクタス」を見たよ!

南アフリカ。
1990年、28年ぶりにネルソン・マンデラが釈放された。
1994年、彼は南アフリカ初の黒人大統領となる。
依然残るアパルトヘイトの影。白人と黒人の対立。
人種による差別、経済格差をなくす為に尽力する彼が注目したのは、同国で開催されるラグビーのワールドカップ。
そこで彼は、国の恥とまで言われた弱小ラグビーチームを、ワールドカップで優勝させようと考えた。
そこで彼はさっそく、白人でキャプテンのフランソワ・ピナールをお茶会に招いたのだった・・・。

いやー、参った。
これを撮ったクリント・イーストウッド監督の手腕にも、だけど、この作品には原作があるようだけど、全て事実である事、たかだか15年ほど前の事、という事にもね。
この作品に感想を書くなんておこがましい気もするけど、でもいつも通り、書きましょうか。

ネルソン・マンデラ氏の名前はもちろん知っていたけど、おそらくとても渋い作品なんじゃないかと勝手に想像していて、とっつきにくいと思ってたの。
でも、映画館で予告編を見たら、なんだか見たい気分がむくむくしてきて、行って良かったよ。
久しぶりに、「良い作品」を見た、と思ったから。

ストーリーに関しては、とやかく言っても、事実であるので意味がないので、言いません。
でも、この事実を、人種と差別や経済格差、国の政治に関わる難しい問題を孕みながらも、映画自体はラグビーのワールドカップで、いかに南アフリカシームが勝ったか、というエンターテイメントに徹した、娯楽作品に仕上がっているところが、監督の技術なのだな、と激しく思ったわ。

ネルソン・マンデラ氏という人は、すごい方。
映画を見れば見るほど、その人柄というか、考え方というか、人を導く、それまでの既成概念を根底から覆す、という偉業をなしどけた方というのは、こういう方なのか、と感心しかり。
でも、そんな世界の英雄を、この映画では、英雄らしくは描いていないと思う。
淡々と、地味に、公務を果たす彼を、モーガン・フリーマンが味のある存在感で演じていて、その派手さがないところが、とても好感がもてる。
決して、ヒーローじゃないの。
ばったばったと敵を倒したり、出陣前の演説なんか、決してしないから。

それは、ラグビーのキャプテンを演じたマット・デイモンもそう。
決して、派手な存在じゃない。
口数も少ないし、チームメイトの前で、仰々しい演説をぶったりもしない。
マンデラ氏の代弁もしない。
静かにマンデラ氏の考えに賛同し、理解し、行動する。
本人が、本当にそういう方だったのでしょう。
何もいう事ありませんよ。ホントに。

さらに好感を持ったのは、観客に対し、「ほら、すごいだろう、感動するでしょ?涙がこぼれるでしょ?」と、押し付けがましい感動シーンを作らなかった事。
この演出はさすが。
感動するシーンは、たくさんあるのよ。
大統領警備につく白人黒人混合チームが、いつの間にか心を通わせるようになったり、メイドの黒人が、雇い人の白人と一緒に並んでラグビー観戦したり、黒人の少年が白人のおっさんと一緒にラグビーの中継をラジオで聞いていたり喜んだり、とかね。
だんだんとチームが勝ち進んでいくにつれ、いままで対立しかしていなかった黒人白人が、なんて事ない、隣人同士のように、語り合ったり、喜んだり、手を取り合ったりするの。
ほのぼのしていて、微笑ましくて、つい涙腺が緩みかけてたりするのよ。
でも、長く感動をひっぱらない。
短いシーンのつなぎ合わせてで、感動がぐーっと高まる前に、次のシーンへ移ってしまって、あれあれというまに、次のシーン。
で、また次の感動が盛り上がりすぎる前に、次のシーンって具合いにね。

人々の気持ちの移り変わりを、ラグビーに託したのは、すごい考えだと思うわ。
だって、国の代表が勝つって、やっぱりすごい感動するし、興奮するし、国の仲間意識をすごく刺激するでしょう。
だからオリンピックは国の代表なのだし、WBCだって、仕事の手を休めてワンセグで試合見てたもん。
南アフリカのラグビーチームに、白人は夢中になり、黒人は嫌っているという事実から、白人も黒人も、国のチームとして一緒に応援できるチームにしてしまったのだから、手段の大切さというのかな、ものはやりよう、なのだなと実感させられるわ。

見終わった今、一人だけ、黒人の代表選手がいた、という事すら、奇跡のように感じるよ。

作品のセンスがすごい。
この作品に対する感想が、「すごい」の連発になってしまうのはとても申し訳ないけど、ご都合主義とか、やりすぎ、という批判ができないところが、またすごい。
だって、事実だもん。

これ、強いなぁ。
事実。
もちろん、エンターテイメントの作品としての演出はしているけど、ウソや作り事はないのだから、やはり人が考えて作り出す物語より、事実は無敵だね。

マンデラ氏を演じたモーガン・フリーマンは、なんと本人のマンデラ氏が、もし自分を演じるなら、と、名前を出したのだそう。

ちなみに、この1995年ワールドカップの優勝が南アフリカで、準優勝は強敵ニュージーランドなのだけど、このニュージーランドと対戦した日本チームは、最多得点(日本からしてみると最多失点)という記録があるらしい。

久々に人に薦めたくなった映画だわ。
何より押し付けがましくないところがいい。

作品中、印象深い言葉が、いくつか出てくる。
そのほとんどは、マンデラ氏が、自らの支えとして大切にしていた言葉。
詩の一説だったり、歌だったり、
タイトルの「インビクタス」も、詩のタイトルで「征服されない」という意味なのだそう。
「人を許す心」、この映画から学べます。

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これも、考えさせられます 【サロゲート】 [映画日記<2010年>]

「サロゲート」を見たよ!

ロボット工学の発達により、脳神経を通じて、自らの分身、身代わりである「サロゲート」というロボットを自由に操れるようになり、14年。
人間は、自宅にいながら、サロゲートを操り、社会生活を営んでいた。
その普及率は限りなく100%に近くなり、犯罪、病気、人種差別などは激減。
そんなある日、青年と、一緒にいた女性のサロゲートが破壊される事件があり、その使用者も自宅で脳が液状になり死亡しているのが発見された。
操作にあたるのはFBI捜査官のトム・グリアー(ブルース・ウィリス)と、パートナーのジェニファー・ピータース(ラダ・ミッチェル)。
死亡した青年が、サロゲートの生みの親、キャンター博士(ジェームズ・クロムウェル)の一人息子だと判明。
博士は7年前に、VSI社の経営陣と対立し、会長職を解かれると、世間からその姿を隠していた。
一方で、サロゲート生産大手メーカーVSI社は、サロゲートの破壊と、その使用者の死との関係を否定する。
安全装置が働き、使用者には全くの被害がないのが売りのVSI社にとって、それはあってはならない事だった。
青年を襲った犯人の身元が判明し、サロゲートと使用者の身体を破壊した武器を持っている事が分かる。
身柄を押さえに出向いたグリアーは、逃げる犯人とのチェストの末、サロゲート排除を謳う独立区にて、大立ち回りを演じたあげく、青年を殺害した武器の攻撃に合い、生身の身体は傷つき、サロゲートは破壊され、FBIには謹慎を言い渡される。
それでも納得のできないグリアーは、生身の身体のまま、操作を続けるのだった・・・。

良く考えられた設定だと思うよ。

細かい事を言えば、それほど近未来の話でもなく、どのくらいの距離まで操作できるのか、とか、コストの問題で100%に近い普及率はムリだろうとか、あれだけ長い時間操作する為に横になっていたら、生身の身体が衰弱してしまうだろう、とか、ある事はあるのだけど、この映画で言いたかった事は伝わる。
ぶっちゃけ、監督も製作も、フタッフ陣が有名でなく、主演のブルース・ウィリスの知名度だけで作品化された、B級Sci-fiアクション映画で終わるには、ちょっともったいない気がする。

ストーリーは、サロゲートとは何なのか、を見せながら、人間が生身での存在価値を放棄して、見た目の美しさ、理想の身体、傷つかない、病気にもかからない、本当の意味での肌と肌の付き合いをしていない、そんな人間の姿を現実として見せて、さらに、誰がサロゲートとその使用者を殺したのか、どうやって、何を目的に、というところを主人公のグリアーと共に追っていく展開。

人間が表に出る事を放棄して、全てサロゲートで生活をしている様子は、見ていくうちに、だんだんと気持ち悪くなっていくね。
理想的な見た目にカスタマイズできるサロゲートは、サロゲートが若い女性だからといって、その使用者が果たして本当にそうなのかといえば、全くもってそうではない。
自らの正体を隠して、偽りの存在が生身の存在を超えてしまう感じは、ちょっとネットの世界にも似てる。
設定がまだサロゲートが一般人に流通するようになってそれほど年月が経っていなかったから、夫婦は同居をしているし、子供にはまだあまり普及していないし、サロゲートを充電にかけてしまえば、生身の人間が動くしかなくなるけど、もしこれがサロゲートが普及して、何十年も経っている設定だったら、家族が同居しているかどうかもあやしいし、どうやって子供を作るんだろうとか、多分人工授精とかなんだろうけど、別の気持ち悪さがあったんじゃないかな。

ロボットであるサロゲートは、交通事故にあっても、銃撃されても、ただロボットが壊れるってだけで、あまり気にされず、その無関心さがまた怖いね。
むごいクラッシュなのに、あぁ壊れた、って思うくらい。
それは戦場も一緒で、軍人もサロゲードで戦場に趣き、撃たれて壊れれば、まだ別のサロゲートで出て行く。
本人は安全な施設の中で、操縦だけしていればいい、って、怖くない?
ゲームと一緒。
死ねばコンテニューできる感覚。

独立区でグリアーが犯人を追う時も、元々ヘリコプターの墜落で、グリアーのサロゲートも腕がもげて、傷だらけなのに、何の表情も変えず、チェイスを続けていく感じは、人間味がなくて冷たい感じ。
特に犯人が生身だったから、余計。

しかも演じている役者が、サロゲート役を演じている時は、微妙に表情が硬かったり、無表情だったり、動きがほんの少し不自然だったり、と、細かいところまで演じていて、余計にサロゲートへの不安感が増すね。

ブルース・ウィリスがサロゲートの時はさ、肌もつるつるで、髪もブロンドがふさふさで、確か本人はブロンドではなかったと思うけど、ちょっと若い感じで、笑っちゃうけど、それがウソくさいというか、ロボットらしくて、いい感じだったわ。
逆に生身の時は、年をとってて、ハゲ(笑)で、シワが多くて、疲れた表情をしてる。
このあたり、上手いな、と思う。

それと、これはビジュアル・エフェクトの技術だけど、サロゲートとの接続が切れる瞬間、ふっとサロゲートから表情がなくなって、動きが止まるところは、なんか魂がふっと抜けるようで、ぞっとするよ。
生き物からモノに変わる瞬間は、本能的に嫌悪感がするみたい。

元々、サロゲートは、身体が不自由な方が、自由を得る為に、医療用として開発された、という設定なのね。
その次が軍事用で、そして、一般に。
その進化の過程で、本来の目的が、徐々に変化していったのだろうけど、それが今回の事件の真相、なのかな。
誰が、どうやって、なぜ、という答えは、それほど複雑には作られていないから、見ていれば分かる。
キャンター博士の考えは、間違っていないと思うよ。
そのやり方は、別としても。
グリアーが、最後、“N”を選択したのも、同じ理由。
人が、人として、人とのふれあいや交流がなくなったら、世界そのものが存続していかなくなると思うのだけど。
その代わり、病気や事故、争いに対処していかなきゃならない。
この映画、結構、真面目に、いい事を伝えようとしていると思うんだけど、どうだろう。
これって、もしかして、ネットなどの仮想世界がないと、生きていかれなくなっている現代人に対する警鐘なのかしら。
なら、耳が痛い話だな。
顔が見えない付き合いに、そろそろ私も慣れきってきているもんね。

後でふと思ったのだけど、このサロゲート、設定や技術面、目的とかは違うけど、あの「アバター」と同じ構造だよね。
脳神経を通じて、別の個体を自由に操って、別の自分が生まれる、という点では。
「アバター」ではアバターたちは“善”のイメージだったけど、サロゲートたちはどうしても“負”のイメージだなぁ。
それは有機物、無機物の違い、ではないと思う。

サロゲートでのトム・グリアーを見ているより、生身のトム・グリアーを見ている方が、カッコイイと思った。
疲れたおじさん、でも。
何年かぶりに生身で町を歩くグリアーが、とても怯えている様子は、ただ事ではない気がしてくる。
サロゲートではない妻を求め、亡くした息子を思い、傷つきながらも事件を追っていくグリアーは、カッコイイよ。
老いも心の傷も、目を背けちゃいけないのよね。
ね。
この映画、結構いい事言っているでしょう。

とは言え、90分ほどの上映時間で、とっとと進んでいく展開に、そういうスピード感に慣れていない人には、あれあれという間に、終わってしまうかも。
で、後で、あぁいろいろ考えさせられる映画だったのかも、ってなりそう。
「アバター」があれだけ単純なストーリーで、それでも感動したし、考えさせられたとの比べると、かなり分が悪いかも。
比べちゃいけないのだろうけどね。
予算とかも違うんだろうし。
宣伝とか、知名度とかも。
でもその分、簡単に見られる作品なので、是非、見て下さいな。
私は、もっと注目されてもいいと思うよ。
「アイ・ロボット」より、考えさせられたもん。

タグ:サロゲート
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考えさせられます 【アバター】 [映画日記<2010年>]

「アバター」を見たよ!

ジェイク・サリー(サム・ワーシントン)が地球から遥か彼方、緑豊かな衛星パンドラに来たのは、科学者で、パンドラの先住民“ナヴィ”との「アバター計画」の中心人物であった双子の兄が、強盗に殺されてしまったから。
「アバター計画」とは、“ナヴィ”と人間のDNAを組み合わせ、“ナヴィ”そっくりのもう一人の自分を作り出し、それを操縦する事により、パンドラや“ナヴィ”を知る事にあった。
兄のDNAから作り出したアバターを操縦できるのは、ジェイクしかいない。
ジェイクは、この「アバター計画」が成就したあかつきには、海兵隊時代に負傷し、動かなくなった下半身を直してもらえるのを報酬に、遥かパンドラまでやってきたのだ。
さっそくアバターを操縦し、パンドラの森に入るジェイク。
自由に動く身体、人間の身体には向かない大気の問題など、全て克服しているアバターの身体は、ジェイクにとって“自由”だった。
そこでジェイクは“ナヴィ”の女性戦士ネイティリ(ゾーイ・サルダナ)と出会う。
最初はジェイクを拒否していたネイティリだが、次第にジェイクの存在を認めるようになる。
一方、パンドラにやってきた人間の本当の目的は、科学者たちが進めているパンドラや“ナヴィ”の生体調査ではなく、パンドラの地中に眠っている貴重で高価な鉱石の発掘にあった。
その為には、地上で暮らしている“ナヴィ”は邪魔な存在でしかなく、相受け入れられない両者の小競り合いは続いていた。
調査の名目で“ナヴィ”の生活を学ぶうち、ジェイクは彼らの自然と調和している生きる生き方に感銘を受け、美しい自然を愛するようになる。
そしてネイティリとも契りを交わすまでに。
だが、鉱石を求める人間が武力行使に出ると、鉱石を求める側、調査の科学者たちとの間で板ばさみとなっていたジェイクは、“ナヴィ”と人間、どちらの側に付くのか、重大な決断を迫られるのであった・・・。

ここまで、ちょっとあらすじを読んだだけで、最後までストーリーを読めてしまう映画も、そうないと思う。
でもこの映画で知ったのは、決して、それだけで映画の面白さや価値が決まるものではないのだな、という事。
久しぶりに、映画を見て鳥肌が足ったよ。

まず最初に3Dの事に触れておくけど、
3D映画と言えば、少し前に「ブラッディ・バレンタイン3D」を見ているので、あのメガネの感覚は知ってるのだけど、格段と、まではいかないまでも、結構かけやすくなっていたわ。
「ブラッディ・パレンタイン3D」はホラーの典型なので、ガッと人を驚かせる為に、3Dの効果を使っていたけど、この「アバター」は立体感やリアル感を出す為に3D効果を使っているので、「飛び出す」というよりは「奥行き」なの。
まさに3次元の世界がスクリーンに広がっているのを見ると、これからの映画はとことんリアルに、3Dなんだろうな、とも思ったわ。

先に、ストーリーが読めてしまう、と書いたけど、
主人公ジェイクの行動は、本当に典型的すぎて、ちょっとオカシイほど。

ジェイクは負傷で退役した元軍人で、しかも兄がするはずだった「アバター計画」に、ほぼ何も知らないで参加する事のなった、というのが、ちょっとジェイクの心理に作用していると思う。

彼の心は、良く言えば柔軟で、悪く言えば、他が付け入る隙間が、たくさんあったのね。
不自由な身体、亡くなった兄、得に欲も目的もなくパンドラまでやってきた、というのが、そこでの生活を吸収できる器があったって事かな。

それにネイティリが魅力的な女性だもの。

ネイティリは自立していて、強くて、自然を愛していて、ナヴィの伝統的な生活を守って生きている。
そして、ネイティリだけではないのだけど、ナヴィたちがみな賢い。
ある意味スピリチュアルな世界に生きている種族だけど、“他”を受け入れて学習する柔軟性を持っているっていうのが、また魅力的じゃない。

人間なんて、欲しけりゃ奪う、という単純で野蛮な考えの下行動しているけど、
ナヴィたちは、人間の科学者たちが行った英語学習も受け入れ、何人かはちゃんと理解し、話せるまで学んだって事よね。
それは、少なくもと相手を認めたって事でしょう。

ま、ウラの事情とすれば、ナヴィが英語を話せないとジェイクと会話にならないから、というのももちろんあるだろうけど、そういう事情をスムーズに解決しているところが、ジェームズ・キャメロン監督は考えたな、と思った。

ナヴィと人間の表現が、非常に象徴的。
自然を愛し、自然と同調して生きているナヴィは、本来こうあるべき、という理想に見える。
しかもパンドラという星の、生態系の一部にきちんと入っているところもいい。
対して人間は、欲と金。
他は一切排除して、私利私欲の為に動く。
ナヴィが自然なら、人間は機械。

総じて、ナヴィは人間の中の良心の象徴で、人間はエゴの象徴なのでしょう。きっと。

美しい自然と、機械。
この対照的な二つは、いつ見ても心がぎゅっとなってしまう。
「STAR WARS」のエピソード3で、チューバッカの故郷の星での戦闘シーンがあるのだけど、
あそこも自然が豊かで美しい星だったのよね。
そこに、持ち込まれた重機械が、自然とひどく相対していて、心苦しい気持ちのなったの。
それと、似た感じがしたわ。今回も。

最終的に、ジェイクはナヴィたちの側のついて、パンドラを守る立場になるのだけど、
自然を守ろう、自然と共存なくしては人は生きていけない、
このテーマは、あまりに普遍すぎて、過去にもたくさん扱われたテーマなのに、
改めてこう真正面から攻められると、やはり切ないほどそうなんだよな、と思わされてしまうよね。
うーん、ってうなっちゃう。

幸運な事に、日本には昔から、それをテーマにした作品、アニメやマンガが側にたくさんあった。
「ジャングル大帝レオ」もそうだよね。
「ナウシカ」や「ラピュタ」宮崎作品なんか、ほとんどそうだよ。
他を理解しようとしない人間は、それを理解し、受け入れ、共に生きようとする者達に、結局は追い出されるのよ。
それを分かっているから、あのパンドラの基地で、傲慢に振舞う軍人たちを見ていると、「あぁ、なんて愚かなんだ」と、素直に思ってしまう。
ジェイクが、ナヴィを選んだ事も、あぁ良かった、ってね。

惜しむらくは、現状の地球の様子が、全く分からなかったって事かな。
これって、未来が舞台でしょう。
地球は自然破壊が進んで、どうも散々な様子らしいのだけど、それが語られるシーンがほとんどなく、ジェイクのセリフの中にさらっと出てくるのだけど、それまでに人間が犯した、死に掛けた地球みたいなのがもう少し感じられたら、余計にパンドラの自然を失ってはいけないんだ、って、思えたかもしれないね。

ま、にしても、あの大木が燃やされて、倒されてしまうシーンを見ている時の苦しさって、どうも人間の本能に従っている気がしなくもない。
だって、余計な解説抜きに、苦しいもんね。

今作、VFXは「WETA」とか「ILM」なんかが関わっているけど、ナヴィはともかくとして、パンドラの地形や、そこに住む生物たちのデザインは、誰がしたんだろうね。
なんか笑っちゃったのだけど、パンドラの生き物って、どう考えても進化の過程でそうなりました、というルールから逸脱しているデザインに見えて、仕方がなかったのよ。
簡単にいうと、子供に、想像上の怪物だったり、恐竜や生物を描かせたら、カッコイイから、とか、怖そうだから、とかいう理由で、書いちゃった生物のデザイン、ぽいでしょう。
深い森に適してる?とかいう疑問は、野暮なのでぽいっとしときましたけどね。
植物も美しかったけど、やはり植物学的ではないよな。あれは。
地形なんかは、どこかで見た事あるような気もするし、でも今までなかったような気もするし。
なんとなく見覚えがあるような、懐かしい気がしなくもなかったので、ちょっと親近感。
にしても、美しかったわ。

髪の先から何か器官が出てきて、他の植物や動物と、意識を交換できる、という設定は、珍しいし、パンドラのナヴィらしく思えたわ。
ちょっと“王蟲”の触手っぽかったり。

逆に、一つだけ、ジェイクがマッチをするシーンがあったのだけど、
人間が呼吸できない大気、という設定だったのだけど、あれ、酸素がないとマッチに火はつかないと思うのだけど、どういう設定だったのかしらね。
あ、でも、火は激しく燃えるから、何が可燃物質なんだろう。

さすがハリウッド映画と言うべきか。
脇役でも、「男前だなぁ」というキャラクターがいてくれて、これも超お約束だけど、ちょっと嬉しくなったわ。
特に、ミッシェル・ロドリゲスが演じていたパイロットのトゥルーディは、男前だったわ。
できれば死んで欲しくなかったなぁ。

ネイティリは、女優のゾーイ・サルダナがモデルのキャラクターなのだよね。
声もゾーイさんで。
ナヴィ自体が、顔が特徴的な為、あまりゾーイなのかどうなのか、分からんかったけど、
主人公を演じたサム・ワーシントンが、それ以上に、印象の薄い顔立ちなので、ナヴィになってしまうと、ジェイクの方が見分けが難しかったかもしれない。

ジェイクの足が、というか演じているサム・ワーシントンの足が、だけど、下半身不随らしく、痩せ細っているように見えたのは、細かい演出だったわ。

あと、余談というか、分からんけど、大佐が乗って操縦していたデカイロボットみたいな機械は、「マトリックス」のザイオンで、ミフネ船長とかが操縦していた機械と、ほぼおんなじ形だったよね。
偶然・・・?

パンドラは美しい。
それをスクリーンに乗せる事ができる3D技術は、もう何をか言わんや、だよ。
先が読めてしまうストーリーでも、この圧倒的な映像美の中で、正当な主張を堂々とされると、もう勝ち目はないね。
人間は最初っから愚かに見えたし、ジェイクには、さっさと裏切っちゃえ、と思っていたから。

アバター操縦中のジェイクと、アバターのジェイク。
ネイティリが最後、操縦している方のジェイクを見つけたのは、あれは会心のシーンだな。
ネイティリが、人間のジェイクも、ジェイクだって分かったんだって、最後にもう一つ、ほっとしたシーンだったから。

あの、ちょっと上映時間長いけど、是非、映画館で、しかもちゃんと3Dで見て欲しいな。
評価される作品ってのは、ちゃんと理由があるから。
エンターテイメントに徹しているし、押し付けがましくない教訓ってのもいい。
しかもスカッとするよ。
自然を大事にしたい気持ちにもなるし。
今年1本目から、なかなか良い作品を見れて、幸先良い感じだわ。

タグ:アバター
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